実存の問題をシステムや他者が解決することはできない

 たまたま最近読んだ本の『経済成長って何で必要なんだろう』(SYNODOS READINGS)の中で、飯田泰之氏が「貧困は政策によって救える。ただし、個人の実存の問題に対して国家はどうすることもできない」的なことを言っていて、まあ言われてみれば当たり前のことなのだが妙に納得してしまったのでとりあえずそれについて何か書いてみる。

 別に貧困問題に限ったことではないが、ある社会で何かが問題になっている時に、システム側がその問題に対して何らかの対策や制度設計を考え、それがいかに適切で的を得たものであったとしても、必ずしもそれが人々を幸福にするとは限らない。

 いや、だからといって何も対策を打たなくてもいいということじゃない。貧困にあえていでいる人に国が現金を給付すればそりゃ喜ぶだろうし、そのままだったら飢え死にしてしまっていかもしれないような人の命を救うことにもつながる。それはやっぱりいいことだろう。

 でも、飢え死にを免れたからといってその人が全面的に幸福になったともいえない。そりゃそうだろう。その人が抱えている問題が全て金銭に関わるとは限らないのだから(場合によってはそのまま飢え死にしていたほうがその人にとっては幸せだった、なんてことも十分にありえるだろう)。

 もっとわかりやすい例でいえば、たとえば「仕事のやりがい」とかそういう極めて個人の実存に依存するようなことについて、システム側は何もすることができない。それはどうしたってできない。

 もちろん、労働者にプラスになるような政策を打てば、結果として給料が増えたりそういうことはあるかもしれない。でも、だからってその人が仕事にやりがいを感じていなくて不幸せである、という現実をどうこうすることはできない。

 それを解決するためには、例えば別の仕事を探したり、自ら一念発起して上司に企画を提案してみる、みたいな積極的な姿勢が必要なんだろう。言い換えれば、仕事がつまらないのはその人の「自己責任」ってことだ。ああ…それ完全に自分のことだ…。

 とにかく「自己責任」って言葉にはどうしても新自由主義(笑)的なイメージがつきまとって最近はすっかり不人気だし、僕自身もゆるい生き方を志向している人間なのでどうしてもある種の心理的抵抗を感じてしまうのだが、システムがどうすることもできない問題、つまり個人の価値観や実存に関わる問題については、やっぱり自分の責任でどうにかするしかないのだと思う。

考えて書くんじゃなく、書いてから考える

 最近完全にブログの更新をさぼっていた。いかん。
 
 いろいろなことが一段落して、これからは読書したり映画をみたり何かを考える時間がキープできそうだからまた再開する。そして短くてもいいからできるだけ毎日書く。

 もともと、見たり聞いたり読んだりしたことのアウトプットの場としてこのブログを開設した。やっぱり、体験というのは実際に目に見える形に落とし込んでこそ定着する。それは間違いのないことだ。

 これまた最近はさぼっているけど、以前、読書ノートなるものをつけていた。お気に入りの箇所をそのまま抜き出してみたり一言コメントを書き加えてみたり、ほんと他愛もないものだったものの、そこに記録した本の内容については比較的今でも容易に思い出すことができる。

「目に見える形に落とし込む」っていうのは、僕の場合やはり完全に「書く」という行為とイコールだ。多くの人にとってもそうだろう。そして村上春樹なんかはたしか「僕は書きながらじゃないと考えられない」的なことをどこかで書いていたけど、僕の場合もまったくそうだ。

 実際、そうやって何かを書いていると不思議な感覚にとらわれることがある。それは、自分が「考えた」ことを「書いて」いるんじゃなくて、「書いた」ことを「考えてる」という感じ。

 そこからやや強引にある仮説を導きだしてみると、人は考えていることを行うのではなく、「行っている」その行為を通じて初めて考えられるんじゃないか。

 つまり先に考えちゃだめで、まず行動するってことが大事なんだ。本当に。
 
 なんかものすごく普通なことを書いている気がするけど…まあいいや。

電子書籍はニコ動化し、紙の書籍は孤独に楽しむ

電子書籍はこのサービスでブレイクする!?

 こんなものが発表された。

 このサービスが主流になるかは別としても、電子書籍というものが一般化するためには、どうしたって「ソーシャル化」する必要があると思う(特に日本においては)。

 いってしまえば「バーチャル読書会」。これまで読書という行為には、どうしたって「孤独に自己の内面と格闘する」みたいな暑苦しいというか陰湿なイメージがつきまとっていたが、そういう「魂系」のコンテンツがこういう場で大衆に消費されることは少し考えにくい。

 きっとそこでわいわい楽しまれるものの多くは、実用書とか自己啓発本系のわりとライトな内容なものが主となるだろう(あとは技術書系)。
 そして「文学」とか「哲学」とかいう大文字のものはこれまで通り紙の書籍で読まれることとなるんじゃないか。

 でも、そこには「孤独に自己の内面と格闘する」経験を持たないまま大人になってしまってもいいんだろうか、という素朴な疑問が残る。

 いや、もうなっているといえばなっているんだろうけど、読書といういわば究極の個人的体験までもが共有体験化されるとき、ある種の人たちにとってはますます生きにくい世の中になっていくのは間違いない。

ついに到来する「電子書籍元年」

 来年、つまり2010年という年は、出版業界にとって歴史的な1年となるかもしれない。それは15世紀にヨハネス・グーテンベルク活版印刷術を発明して以降の、「本とはを紙に印刷されたもの」という人々の意識が大きく変化する可能性があるからだ。

 平たく言えば、2010年こそは電子書籍が本格的に普及する年になるんじゃないか、ということ。実際、業界界隈では「来年こそが電子書籍元年!」などとまことしやかに囁かれている。AmazonKindleを始めとした電子書籍を読むためのデバイスが本格的に普及する、というのがその最も大きな理由。
 といっても毎度おなじみの「まずはアメリカでブレイク⇒日本でも」という流れになることが予想されるので、日本の電子書籍元年は、正確には2011年ということになるかもしれない。

 もちろん、懐疑的な声が多いのも事実だ。実際、これまでも散々いろいろなタイミングで「今年こそ…」と言われ続けてきた(携帯コミックがビジネスとして成立するようになった時とか)。ただし今回はかなり一般メディアなどでもKindleの話題などに触れられていて、人々の無意識にもある種の「予感」のようなものが大分共有されるようになったんじゃないと思う。また、公衆無線LANの普及など、インフラが整備されたことで「いつでもどこでも書籍をダウンロードできる」という環境が整ったこともあり、今度こそついに待望の「元年」が到来する確度はかなり高いのじゃないかという気がする。

 とはいえ、たとえ電子書籍が広く周知され普及したとしても、すぐに紙の書籍がなくなるわけじゃない。とりあえず出版社が現状の「とりあえず刷ってキャッシュを得る」という自転車操業的なビジネスモデルからなかなか脱却できないだろうと思うし、そもそも電子化というのは既存の「版元⇒取次⇒書店」という流通プラットフォームを根底から破壊することとなるからだ。なかなか一筋縄ではいかないだろうな。 

教養はコミュニケーションの前提となるもの

 久々に行った図書館で、浅羽通明の「教養論ノート」(幻冬社)という本を何となく手に取って、そのまま借りた。まだほんの最初の部分しか読んでいないがなかなか面白そうだ。
 以下、それを読みながら「教養」というものについて考えてみたことのメモ(一部は要約だったりする)。

たくさんの「世間」がある

 社会には無数の「世間」というものが並存していて、それは大学だったり、会社だったりする。そして大学や会社と一口にいっても、その内側はさらに細分化されている。例えば、大学にはたくさんの学部があり、会社には様々な部署がある。この前の朝生で東浩紀も言っていたように、そういう細分化が社会の隅々にまで行き渡った結果、今やゼネラリストでいることは難しく、それぞれの分野についてのエキスパートだけが存在している。 
 そういう社会の状況を、かつて丸山眞男は「タコツボ化」と呼び、問題視した。その理由を僕なりの解釈で大雑把に言ってしまうと、それらタコツボ化した個々の「世間」の内部では、必ずといってよいほど、仲間内でしか通用しないような文脈が生まれることとなるからだ。例えば内輪でしか笑えない「内輪ネタ」と呼ばれるものとか。あるいはそこでしか通用しない専門用語であるとか。そうなってくると、なかなかそれら個々の「世間」の間でのコミュニケーションが円滑に行われなくなり、結果として非常に風通しの悪い社会となってしまう。縦割り行政とか呼ばれる官庁の硬直的なセクショナリズムなんかがその悪しき代表例だ。

インターネットというインフラの登場

 一方、丸山眞男の頃とは違って、現代という時代は、実はそれら無数の「世間」の間を容易に埋める物理的なインフラを備えている。それはつまりインターネットというやつで、実際、こいつはコミュニケーションの手段としてはかつてないほどに強力だ。何しろ、これまで時間や距離というものが持っていた制約を完全に取り除いたのだから。今や人々は世界のどことでも24時間、365日、好きな時に交流することができる。そして例えばTwitterなんかを使えば、これまでは本やテレビの中でお目にかかれなかったような有名人に直接コンタクトを取ることができるようにもなった(そして本人からレスポンスが返ってくることもある)。これは本当に物凄いことで、少し前だったら考えもできなかったことだ。

 ただし、同時に指摘しておかなければならないのは、それらのテクノロジーは、「世間」内部でのコミュニケーションの回路をますます強化する方向にも機能している、ということだ。例えばTwitterにしろmixiにしろ、外部とつながるよりは、もっぱら「既に仲間である者同士」で単に連絡を取り合うためのツールとして使用されているケースというのが大半なんじゃないだろうか。

 まあ、とにかく細分化した「世間」と「世間」をつなぐ太い回路が誕生した。残された問題は、さてその回路のプロトコルをどうするか、ということだ。

教養は「断絶」を埋めるためのもの

 無論、プロトコルといってもIPだとかHTTPだとかそういう話じゃない。ある「世間」と別の「世間」の間でコミュニケーションをする場合に、何を前提として議論を交わすのか、ということだ。そして僕の考えでは、その時に前提となっているもののことを「教養」と呼ぶのだと思う。

 自分とは別のグループに属する人に、いきなり内輪ネタを話してみても意味が通じない。それは相手が自分と同じ文脈を共有していないからであるが、かといってその人と全く議論ができない、というわけではなない。「世間」というレイヤーの下に位置する、より広範なグループをカバーする文脈、つまり教養を共有していれば、話は通じるのだ。

 自分の立っている場所を背後から規定している知的な何か。それについて敏感であることが社会の断絶を埋める。

うざったいメタ視点を葬り去るための実践的方法〜現代の生き辛さ


プライドが高くて困っている人は「とりあえずやり終えてみる」をモットーに! - 発声練習


 表題のようなテーマで何か書こうと思っていたら、上の記事でだいたい同じようなことが書かれていた。

 自分の場合、「自意識と実際の能力の間に大きな乖離」を感じているわけではないが(といっても、無論能力が高いわけじゃなく自己評価が妥当なだけ)、いわゆる「メタ視点(笑)」的なものの見方がいつの間にかデフォルトになっていて困っている。言い換えれば何をするにでも「当事者意識」が欠落している。魂の奥底から湧き上がってくるような熱が足りない。

 この「当事者意識」ってやつは仕事にしろ何をするにしろ、とにかく絶対に必要だ。よくいますよね、まるで他人事のように現状の分析ばかりをする奴(しかも往々にしてその分析は間違っている)。そんな奴に責任感なんて芽生えるはずもないし、もちろん、大した仕事が出来るはずもない。そして最近、自分が若干そうなりかけているんじゃないかと不安になっている。

 いや、もちろん分かっている。「メタ視点」を持つこと自体が悪いなんてはずがない。というか、メタな視点を全く持たない実感・実践オンリーの人間がもっと最悪だなんてことは目に見えている。他人に迷惑をかけているのにそのことを全く自覚していないような奴とか。

 どう考えたって、そういう物事を俯瞰して眺める視点と、今目の前で起こっている出来事に没入する能力、というのは両方必要なものだし、僕が書きたかったことは、つまるところ、それら二つを両立させるためにはどうすればいいのかってことだ。そしてその答えは冒頭のエントリで書かれている通り、結局「目線を高く」置いたまま、「自分の血肉として存在を感じるべき」だということ。要するにメタ視点を保ったまま、とにかく実践あるのみ!という、半ば体育会的方法論ではあるが、結局のところ、本当にそれにつきるのだと思う。

 思えばもっと若い頃の僕は完全に「実践系」というか頭で考えるよりもとりあえず先に体を動かすタイプ人間だった。そのせいで恥ずかしい失敗もたくさんしたが、なんというか生きているという確かな「実感」があった。

 そんな僕がだんだんと現在のような「メタな」ものの見方をするようになったのは、大学に入った頃から理解も出来ないくせに思想やら批評などの小難しい系の本などを読むようになってからだ。そしてこれは声を大にして言いたいのだが、僕のような頭があまりよくない人間が思想書やら批評に手を出してはいけない。これはtwitterでもつぶやいたのだが、かなりの高確率で非リア充化するw

 歴史上、今よりも情報が溢れかえっている時代はない。別に本なんて読まなくても、2chでもはてなでもなんでもいいが、適当にネット上を徘徊しているだけで、すさまじい量の情報が脳みそに流れ込んでくる。まるで何もかもを見たことがあるし知っているかのような既視感を抱きやすく、「メタ視点」にとらわれ易い。実践という部分についてはまるで弱いのにも関わらず。

 僕も含めた若者の多くが「生きにくい」と感じるのって、完全にこういう構図だと思う。

雇用流動化の先に来るべき素敵な社会

 最近会社で大幅な人員削減が実行された。その中身がなかなか大胆、というかはっきりいってエグい。

 ある2つの部署をまるごと廃止。そして「たまたま」その部署に所属していた人たちがほぼ全員、事実上のリストラ対象とされた。おそらく、そこで能力とか実績なんかは全く考慮されなかったと思う。繰り返すが、彼らは本当に「たまたま」その部署に所属していただけ。主に新規事業を手がける部署だったので、むしろ相対的には他の部署よりも優秀な人たちが集まっていたという印象すらある。彼らにとってはただただ不運というほかない。

 労基法とかあまり詳しくないので分からないのだが、法的にもかなりグレーなんじゃないかという気もする(ちなみにほぼ全員正社員)。それに何より自分のような遅刻常習犯の溜まり場で、しかもロクな成果もあげていないし、かといって将来性もほとんどない部署が存続し、彼らがこれからやろうとしてたような新しい事業の芽を摘んでしまったのは、会社にとって中長期的に明らかな損失だと思う。

 とにかく、これら一連の改革(改悪?)がここ二ヶ月間の間に一気に行われたのだが、おそらく現在日本中の中小企業では同様のことが日常茶飯事に起こっているのだと思う。なんだか一気に赤木智弘雨宮処凛のことが身近に感じられました。

 ところで、そういった雇用の流動化現象の対極にあるものとして「日本的終身雇用」などと呼ばれるシステムが存在するわけだが、そんなものは60〜80年代の高度成長期という歴史的にも極めて幸福で「稀な」時代にのみ存続しえた物語であって(しかも一部の大企業限定)、今となっては大企業ですらそれを維持するのは困難な時代だ

 おそらく今後は、消費やサービスのサイクルがどんどん早くなっていって、一つのビジネスモデルを何十年にも渡って維持し儲け続ける、なんてことはほぼ不可能になるだろうから、必然的に企業はその時々により人材をガンガン入れ替える(もちろん、それは流動化の一つの要因に過ぎない)。
 この国、というよりも先進国にとってこの大きな時代の流れ、というのはちょっと長い目で見れば避けられないような気がするし、実は個人的にもそうなってしまえばいい、と思っていたりする。

 とはいえ、もちろん自分がそういう流動化した労働市場において勝者になれる、などという自信を持って流動化しちゃえ、なんて言っているわけじゃない(というか、勝者なんてなれっこない)。ただ、現在のように正社員という働き方だけが「まとも」であるとされる社会がぶち壊れてしまえばいい、と思っているだけだ。例えばバイトでもフリーの物書きでも何でもいいが、そういう多様な働き方が肯定・許容されるような社会、もっと言えば、時間にも場所にも拘束されないような働き方が普通とされる社会(佐々木俊尚の言う「ノマド・ワーキング」的な)。そういう社会の実現を僕は待望している。

 ただし、現在の状況で雇用だけが流動化してしまえば目も当てられないような悲惨な状況に陥ることは目に見えている。こういう社会の実現の前には、満たしていなければならない二つの前提がある。

 一つは、ベーシック・インカム的なもの。つまり、どんな仕事、働き方をしていようとも路頭に迷うことがないようにするための最低限の金銭的な保障。

 二つ目は、人的なネットワークの充実。言い換えれば、人々を温かく包摂するような共同体の構築。長らく日本では、(特に男にとって)会社は労働の場であると同時に社交の場でもあった。それを代替するような、コミュニケーションの場を確保すること。今の日本にとってはこっちの方が難しいような気もする。

 もちろん、SNSなんかも否定はしないし、既に人々の交流に大きな役割を果たしているとは思うのですが、個人的にはなんかだめなんすよね…。

 というわけで、以上、どこかで読んだり聞いたことを書いてみました。