Kindle上陸 「読書」の未来

 いよいよアマゾンの電子書籍端末「キンドル」が日本でも発売されるとのこと。いや、日本どころか世界100か国で同時に発売するらしい。このタイミングっていうのは、まあ普通に考えて、もうすぐ発表されるアップルの新端末を意識してのことだろうな。

 ソニーの「Reader」はそこそこ健闘しているものの、パナソニックやシャープなどの日本のメーカーは複雑な心持でこの「黒船来航」を見守っていることだろう。なんせ日本では各社ともかなり早い段階から読書専用端末を開発・発売していたのだが、軒並みこけてしまった。というかReaderだって「LIBRIe」という商品名で2004年に日本で発売されているのだが、全くといって良いほど売れなかった。

 その後、日本の電子書籍のプラットフォームは携帯電話へと移行し、そこで独自の発展をとげる。インプレスR&Dによれば、2008年度の日本の電子書籍の市場規模は464億円で、そのうちの402億円が携帯電話向け電子書籍の市場だ。そして聞くところによれば、その中のほとんどがBL(ボーイズラブ)やTL(ティーンズラブ)などのエロ系・漫画コンテンツとのこと

 要するにリアルの本屋では買いづらい商品をケータイで読む、といった構図で、電子書籍=エロみたいなところに落ち着いてしまい、現在に至っている(実際、コンテンツ・プロバイダーへのアクセスが最も集中するのは深夜らしい。布団にもぐってケータイ片手に楽しむ…ということみたい)。

 もちろん一般の人が「本」と聞いて連想するような、エロではない、文学作品などの「普通」のコンテンツもそれなりに出回っている。だが如何せん、全くと言って良いほど売れていないというのが実情のようだ。やはりエロという「明確かつ強固な目的」がない限り、携帯電話のあの小さい画面で読書をする気にはなかなかならないのだろうか。

 ちなみにキンドルのディスプレイは6インチで、これぐらいであればそれほど違和感なく、あたかも「読書」を体験している感覚を味わうことが出来るのではないかと思う。この、「読書をしている感覚」をユーザーに持たせることができるか、というのが普及の鍵のような気がする。携帯ではどうしてもその感覚は味わえないから。

 但しその感覚というのは、あくまで電子書籍を単なる紙の書籍の延長として考えた場合にのみ有効な利点だ。全く紙と一緒の感覚しか味わえないというのなら、それはとてもつまらないことだと思う。
 きっと今後は、紙ではなくデータであるという特性を生かした、「読書」とは違う、全く新しい体験をもたらすような方向に進んで行くのだろうし、是非進んで行って欲しいと思う。

「グラン・トリノ」――さようなら、カウボーイたち。そしてアメリカの夜明け

 結局「グラン・トリノ」を3度観た。DVDを2日延滞して600円取られた。でもいいんだそんなことは。本当に感動したから。

 この作品に通低するテーマは「さようなら」だ。
 それはビッグ3に代表される沈み行くアメリカ自動車産業への「さようなら」であり、あるいは伝統的な共同体(但し白人の)に対する「さようなら」でもあるが、そこらへんについては町山智浩なんかが詳しい。


ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 イーストウッドの『グラン・トリノ』はデトロイトへの挽歌


 もちろん、作品の背景となっているこうした現代アメリカ社会の問題を押さえておくことはこの作品を語るうえでどうしても避けて通れないところではあるし、特にオイルショック以降の日本車の躍進やそれとともに廃れていった白人ブルーカラーたちの社会について、一応、僕たちは知識として知っておくべきだろうと思う。

 でも、イーストウッドがこの映画の中で一番言いたかった「さようなら」、それは「カウボーイ」、あるいは「カウボーイ的なもの」に対するお別れの挨拶だったのじゃないだろうか。

 ラストのシーンで、ウォルトは敵の正面にまっすぐと立ち、冷静に相手の人数を数える。すると野次馬が恐る恐る家々から顔を覗かせる。静寂。そしてタバコをくわえたまま手をジャケットの内側へ忍ばせ、すばやく抜いたその刹那、全てに決着がつく…。

 マカロニ・ウェスタンではお約束のこんな決闘シーン。ただ決定的に異なるのは、あっけなくウォルトが蜂の巣にされてしまうという無残な現実と、単にその「カウボーイ」はよぼよぼに年老いている、ということである。

 そして驚くべきことに彼はなんと丸腰だった。抜いたのは銃ではなくタバコに火を付けるためのジッポ。そう、ウォルトは元・フォードの組み立て工でも、いつも玄関に星条旗を掲げているような典型的な共和党支持者(そしてがちがちのレイシストでもある)でも何でもない。それはあくまで役割であって、彼の本質じゃない。彼は単に「カウボーイ」なのである。粗野で野蛮な、フロンティア精神を体現した存在としての。

 そしてウォルトのその惨めで滑稽な死ととともに、粗野で野蛮な「カウボーイ」はアメリカから姿を消した。彼がその最後の生き残りだったのだ。後に残ったのはタトゥーやピアスしまくりでヒッポ・ホップを爆音で聴いているようなチンピラか、あるいは高度な教育を受けた妙に物分かりのよいリベラルな「カマ野郎」だけ。

 ただし、そういった人々を見つめるイーストウッドの視線は、温かくて肯定的なものだ。彼らのような新しいタイプの連中が21世紀のアメリカを担っていくのだ。二丁拳銃をケータイとパソコンに持ち換えて。あるいは場末の酒場に出向く代わりにFacebookを駆使したりなんかして。

グラン・トリノ

 ついさっき、今更ながらクリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」を観た。
 まあ、噂通り、凄い映画だった。
 もう一回観直し、少し時間を置いてから、今度あらためて感想を書こうと思う。
 最近映画とか全然観れてなくてかなり久々だったんだけど、その久々に観たものがこんなに凄い作品とは…
 

「決断」とは何かを諦めること

 新潮文庫福田恆存「人間・この劇的なるもの」を読んでいたら、こんな文章に目がとまった。

p139
 行動というものは、つねに判断の停止と批判の中絶とによって、はじめて可能になる。私たちはよく「現実を認識しなければならない」とか「現実を凝視せよ」とか、そういうことばを無考えに濫用する。行動は、その「現実の認識」のうえに打ちたてられねばならぬと考え、また、じじつ、自分たちはそうしてきたと思いこんでいる。したがって、その認識が、一つの仮説にすぎぬことを私たちはとかく忘れがちである。仮説が「現実の認識」と同時に、その切り棄てによって成りたつものであることを忘れている。
 劇の主人公は、つねに一貫した行動家であるがゆえに、最初に、あるいは劇の進行過程のどこかで、この判断の停止と批判の中絶とを敢行しなければならない。いいかえれば、かれは不十分な資料を、不十分のままに信頼しなければならないということだ。


というのも、ここで述べられていることが、この前抜書きした丸山眞男の以下のような認識と極めて近いと感じたからだ。

未来社『現代政治の思想と行動』 p450
…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に、多くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。

同 p452
…しかしながら他方決断するということは、この無限の認識過程をある時点において文字通り断ち切ることであります。


 ここで語られていることを僕なりに要約すると「何かを決断し行動するということは、もしもそうしなかった場合に得られたはずの新たな知見や可能性を諦めるということだ」ってな感じになる。

 僕たちは、世界をいかようにでも解釈することができる。だが同時に、僕らは日常の様々な場面で決断をし行動しなければならない。そして、その決断や行動の背後にある僕らの解釈は、常に不完全で頼りない。そこには、もしかしたら将来もっとマシな結論を得ることができるのではないかという疑念が常に存在している。
 
 決断し、行動するということは、そのような疑念を断ち切ることだ。ある種の諦めだとも言える。もっとマシな結論を得ることができる可能性を、ある時点で一度諦めるのである。

 裏返して言えば、決断し、行動できない人というのは、その可能性にずっと執着している人だといえる。「完全に正しい至高の見解」があると信じて、それを得るまでは何もアクションを起こすことができない。そういう人を、世間は意思の弱い人と呼んで馬鹿にする。インテリって呼ばれる人種に行動派が少ないのって完全にこの図式だろう。いろいろなことを知り過ぎているがゆえに、無限の想定をしてしまい、常に自分の考えに確信がもてない。「とりあえず…」っていう発想がなかなかできないんだろうな。チャラい奴が超行動的っていうのもまた然り。あんま何も考えてないがゆえに、見解が狭く、そもそも思いつく選択肢が少ない。だからあまり悩まずにフットワークが軽い。

 で、たった今ふと思いついたのが、宮台真司とかがよく言う「エリート」っていうのは、要はこういったインテリ的な「知りすぎているがゆえの弱さ」とチャラ男的な「知らないがゆえのフットワークの軽さ」を両方兼ね備えた人種のことなんだろうなってこと。まあ普通に考えて、確かに最強という気がする。

 とにかく、戦後日本の保守派と進歩派、それぞれの陣営を代表する二人の知識人が異口同音に「現実は常に不完全にしか把握できない」と書いているのが面白い。

 ちなみに、丸山眞男はこうも書いている。

同 p455
…そういうところから私たちの認識はつねに一定の偏向を伴った認識です。むしろ偏向を通じないでは一切の社会事象を認識できない。ここでも問題は、偏向をもつかもたないかではなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性的にコントロールするかということだけであります。


つまり、自分が「現実を不完全にしか把握できない」ことを自覚しろ、ってこと。

丸山眞男『現代政治の思想と行動』 未来社

政権交代を機に、丸山眞男なんかを久々に読んでみた。
民主主義(に限らないが)にとって必要なものは、ものごとをある時点で決断すること。そして何かを決断するということは、ある可能性を断念することに他ならない。

p449
…われわれは一つ一つの社会的な行動が、一定の傾向性にコミットするという意味を、どうしてももつということであります。この場合の行動ということには、静観している、つまり不作為ということも含まれます。

p450
…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に、多くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。

p452
…しかしながら他方決断するということは、この無限の認識過程をある時点において文字通り断ち切ることであります。

p455
…そういうところから私たちの認識はつねに一定の偏向を伴った認識です。むしろ偏向を通じないでは一切の社会事象を認識できない。ここでも問題は、偏向をもつかもたないかではなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性的にコントロールするかということだけであります。

p457
…つまりそれは不作為の責任という問題です。しないことがやはり現実を一定の方向に動かす意味を持つ。不作為によってその男は、ある方向を排して他の方向を選びとったのです

魅力的な人たち、そうでない人たち

 社会に出てみて一番驚いた、というか意外だったのは、世の中には魅力的な人々がたくさんいるということだ。考えてみれば当たり前のことなのだが、今よりももっと若い頃には「社会人」という存在から連想されのは、保身、金の亡者、みたいな、今思えば完全に中二病的ステレオタイプな見方でしかなかった。

「魅力」という概念は多分に相対的なものであり、人それぞれ他人のどういうところに魅力を感じるか、というのは千差万別だろうけど、僕の場合、前回のエントリでも書いたように、「地に足の着いた、余裕のある人」にどうしても惹かれてしまう。

 余裕がある状態では、人は自己を相対化することができる。そしてユーモアとはそうやって自己を絶対化せず、突き放して見ることができる人間だけが持つことができる。例えば、自分の恥ずかしい過去の行いや、現在の行き詰った状況を茶化してみたり。自分を絶対化し、世界を見渡すときの視点が全て自分から出発しているような者にはそういうユーモアを持つことができない。世の中には魅力的な人たちがたくさんいるのと同時に、そういうプライドの塊のような輩も同時にたくさん存在している。

 ただし僕の少ない経験から言うと、仕事などで目に見える結果を残す人の多くは後者、つまりプライドの塊のような自己中心的タイプの人間が多いような気がする。彼らの多くは上昇志向の持ち主だし、仕事に対する責任感に溢れている。

 でもそういう人たちがさらに上の段階に進むためには、結局のところ「余裕のある人間」、つまり自分を笑う度量を身に着ける他ないんだろうとも思う。
 そうじゃないと人がついて来ませんからね。

おいしい生活。

 この連休中、僕はずっと実家(東北)に帰省していて、例によってほとんどは家でゴロゴロしていた。食事、風呂、洗濯など、日ごろの雑用を全て母親がこなしてくれるという、ほんの10年前だったら当たり前であった生活。素晴らしかった…。本当はこういう時こそいろいろ手伝ってあげなきゃならなかったんですけどね。すまない、母ちゃん。

 さて、そんな自堕落な生活を送りつつ、ほとんど白痴のように過ごしていた僕ですが、全く外出しなかったというわけじゃない。近くの山の麓にある温泉まで車で行ってみたり、両親が趣味で借りている畑での仕事をちょっとだけ手伝ってみたりと、年寄りくさい、いや、ちょっと格好よく言えば、「ロハス」な時間を過ごしてきた。

 そして今、僕は大都会東京のとあるマクドナルドの2階喫煙席にてこの文章を書きながら、「余裕」ということについて思いを巡らせている。

 なんでそんなことを考えているかといえば、要するに、実家での暮らしには余裕がある、と感じたからだ。そして今、僕は自分の生活に余裕がない、と思っている。もちろん、山積している仕事のこととか、最近会社であった大幅な人事異動(というか体制の変化)にびびっている、などという、そう思うに足る諸々の事情はあるのだが、なんというか、平日のこの時間にマクドナルドでノートパソコンを開いている、というこの現実も含めて、僕の生活には余裕がない。

 別に近くに温泉がない、とか、僕が畑で野菜を作っていない、とかそういうことが問題なわけじゃない。ちょっとうまい表現が見つからないのだけど、「地に足がついた感じ」とでもいうべきものが、故郷の両親にはあって、僕にはない。分をわきまえている、というか。

 自分たちの行動を縛る数多くの制約、それは例えば経済的なものであったり年齢的なものであったりするのだが、そんな理不尽な現実に腹を立てることなく、受け入れる。そしてそこで許された範囲で生活を楽しむ。要するにそれって一言で言っちゃえば「庶民的な慎ましい生活を楽しむ」ってことなんだろうけど、やっぱりそういう生活をしている人からは鷹揚な感じを受ける。余裕を感じる。

 もちろん、こういう庶民的な感覚というのは、往々にして現状肯定・追認ということにつながりやすくて、権力者から政治的に動員され易いっていうのは間違いないんだけど、それでも僕はこういう人たちに惹かれるし、信頼してしてしまう。

 翻って僕、というか多くの都会の若者の生活。
 ベタな物言いではあるが、なんというか現実感覚が欠落したゲームの世界を生きているみたいだ。スキルを身に付けて「レベルアップ」し、自分以外の他人はキャラクターに過ぎず、共感や感情移入がしづらい。仕事中はほとんどパソコン画面とにらめっこ。五感がどんどん損なわれていく気がする。情報は溢れていて、何も知らないのに世の全てを知っているような、既視感にとらわれている。そうして自意識だけが肉体を離れて肥大していく。余裕があるような素振りをしたって、どこかぎこちなくなってしまう。不自然だ。村上春樹チックに言っちゃえば、僕らは「失われて」いる。僕らはまた違う意味で「失われた世代」つまりロスジェネってやつなんだな。

 などと考えてみた9月の夜。早く帰って寝ようっと。