うざったいメタ視点を葬り去るための実践的方法〜現代の生き辛さ


プライドが高くて困っている人は「とりあえずやり終えてみる」をモットーに! - 発声練習


 表題のようなテーマで何か書こうと思っていたら、上の記事でだいたい同じようなことが書かれていた。

 自分の場合、「自意識と実際の能力の間に大きな乖離」を感じているわけではないが(といっても、無論能力が高いわけじゃなく自己評価が妥当なだけ)、いわゆる「メタ視点(笑)」的なものの見方がいつの間にかデフォルトになっていて困っている。言い換えれば何をするにでも「当事者意識」が欠落している。魂の奥底から湧き上がってくるような熱が足りない。

 この「当事者意識」ってやつは仕事にしろ何をするにしろ、とにかく絶対に必要だ。よくいますよね、まるで他人事のように現状の分析ばかりをする奴(しかも往々にしてその分析は間違っている)。そんな奴に責任感なんて芽生えるはずもないし、もちろん、大した仕事が出来るはずもない。そして最近、自分が若干そうなりかけているんじゃないかと不安になっている。

 いや、もちろん分かっている。「メタ視点」を持つこと自体が悪いなんてはずがない。というか、メタな視点を全く持たない実感・実践オンリーの人間がもっと最悪だなんてことは目に見えている。他人に迷惑をかけているのにそのことを全く自覚していないような奴とか。

 どう考えたって、そういう物事を俯瞰して眺める視点と、今目の前で起こっている出来事に没入する能力、というのは両方必要なものだし、僕が書きたかったことは、つまるところ、それら二つを両立させるためにはどうすればいいのかってことだ。そしてその答えは冒頭のエントリで書かれている通り、結局「目線を高く」置いたまま、「自分の血肉として存在を感じるべき」だということ。要するにメタ視点を保ったまま、とにかく実践あるのみ!という、半ば体育会的方法論ではあるが、結局のところ、本当にそれにつきるのだと思う。

 思えばもっと若い頃の僕は完全に「実践系」というか頭で考えるよりもとりあえず先に体を動かすタイプ人間だった。そのせいで恥ずかしい失敗もたくさんしたが、なんというか生きているという確かな「実感」があった。

 そんな僕がだんだんと現在のような「メタな」ものの見方をするようになったのは、大学に入った頃から理解も出来ないくせに思想やら批評などの小難しい系の本などを読むようになってからだ。そしてこれは声を大にして言いたいのだが、僕のような頭があまりよくない人間が思想書やら批評に手を出してはいけない。これはtwitterでもつぶやいたのだが、かなりの高確率で非リア充化するw

 歴史上、今よりも情報が溢れかえっている時代はない。別に本なんて読まなくても、2chでもはてなでもなんでもいいが、適当にネット上を徘徊しているだけで、すさまじい量の情報が脳みそに流れ込んでくる。まるで何もかもを見たことがあるし知っているかのような既視感を抱きやすく、「メタ視点」にとらわれ易い。実践という部分についてはまるで弱いのにも関わらず。

 僕も含めた若者の多くが「生きにくい」と感じるのって、完全にこういう構図だと思う。