雇用流動化の先に来るべき素敵な社会

 最近会社で大幅な人員削減が実行された。その中身がなかなか大胆、というかはっきりいってエグい。

 ある2つの部署をまるごと廃止。そして「たまたま」その部署に所属していた人たちがほぼ全員、事実上のリストラ対象とされた。おそらく、そこで能力とか実績なんかは全く考慮されなかったと思う。繰り返すが、彼らは本当に「たまたま」その部署に所属していただけ。主に新規事業を手がける部署だったので、むしろ相対的には他の部署よりも優秀な人たちが集まっていたという印象すらある。彼らにとってはただただ不運というほかない。

 労基法とかあまり詳しくないので分からないのだが、法的にもかなりグレーなんじゃないかという気もする(ちなみにほぼ全員正社員)。それに何より自分のような遅刻常習犯の溜まり場で、しかもロクな成果もあげていないし、かといって将来性もほとんどない部署が存続し、彼らがこれからやろうとしてたような新しい事業の芽を摘んでしまったのは、会社にとって中長期的に明らかな損失だと思う。

 とにかく、これら一連の改革(改悪?)がここ二ヶ月間の間に一気に行われたのだが、おそらく現在日本中の中小企業では同様のことが日常茶飯事に起こっているのだと思う。なんだか一気に赤木智弘雨宮処凛のことが身近に感じられました。

 ところで、そういった雇用の流動化現象の対極にあるものとして「日本的終身雇用」などと呼ばれるシステムが存在するわけだが、そんなものは60〜80年代の高度成長期という歴史的にも極めて幸福で「稀な」時代にのみ存続しえた物語であって(しかも一部の大企業限定)、今となっては大企業ですらそれを維持するのは困難な時代だ

 おそらく今後は、消費やサービスのサイクルがどんどん早くなっていって、一つのビジネスモデルを何十年にも渡って維持し儲け続ける、なんてことはほぼ不可能になるだろうから、必然的に企業はその時々により人材をガンガン入れ替える(もちろん、それは流動化の一つの要因に過ぎない)。
 この国、というよりも先進国にとってこの大きな時代の流れ、というのはちょっと長い目で見れば避けられないような気がするし、実は個人的にもそうなってしまえばいい、と思っていたりする。

 とはいえ、もちろん自分がそういう流動化した労働市場において勝者になれる、などという自信を持って流動化しちゃえ、なんて言っているわけじゃない(というか、勝者なんてなれっこない)。ただ、現在のように正社員という働き方だけが「まとも」であるとされる社会がぶち壊れてしまえばいい、と思っているだけだ。例えばバイトでもフリーの物書きでも何でもいいが、そういう多様な働き方が肯定・許容されるような社会、もっと言えば、時間にも場所にも拘束されないような働き方が普通とされる社会(佐々木俊尚の言う「ノマド・ワーキング」的な)。そういう社会の実現を僕は待望している。

 ただし、現在の状況で雇用だけが流動化してしまえば目も当てられないような悲惨な状況に陥ることは目に見えている。こういう社会の実現の前には、満たしていなければならない二つの前提がある。

 一つは、ベーシック・インカム的なもの。つまり、どんな仕事、働き方をしていようとも路頭に迷うことがないようにするための最低限の金銭的な保障。

 二つ目は、人的なネットワークの充実。言い換えれば、人々を温かく包摂するような共同体の構築。長らく日本では、(特に男にとって)会社は労働の場であると同時に社交の場でもあった。それを代替するような、コミュニケーションの場を確保すること。今の日本にとってはこっちの方が難しいような気もする。

 もちろん、SNSなんかも否定はしないし、既に人々の交流に大きな役割を果たしているとは思うのですが、個人的にはなんかだめなんすよね…。

 というわけで、以上、どこかで読んだり聞いたことを書いてみました。