教養はコミュニケーションの前提となるもの

 久々に行った図書館で、浅羽通明の「教養論ノート」(幻冬社)という本を何となく手に取って、そのまま借りた。まだほんの最初の部分しか読んでいないがなかなか面白そうだ。
 以下、それを読みながら「教養」というものについて考えてみたことのメモ(一部は要約だったりする)。

たくさんの「世間」がある

 社会には無数の「世間」というものが並存していて、それは大学だったり、会社だったりする。そして大学や会社と一口にいっても、その内側はさらに細分化されている。例えば、大学にはたくさんの学部があり、会社には様々な部署がある。この前の朝生で東浩紀も言っていたように、そういう細分化が社会の隅々にまで行き渡った結果、今やゼネラリストでいることは難しく、それぞれの分野についてのエキスパートだけが存在している。 
 そういう社会の状況を、かつて丸山眞男は「タコツボ化」と呼び、問題視した。その理由を僕なりの解釈で大雑把に言ってしまうと、それらタコツボ化した個々の「世間」の内部では、必ずといってよいほど、仲間内でしか通用しないような文脈が生まれることとなるからだ。例えば内輪でしか笑えない「内輪ネタ」と呼ばれるものとか。あるいはそこでしか通用しない専門用語であるとか。そうなってくると、なかなかそれら個々の「世間」の間でのコミュニケーションが円滑に行われなくなり、結果として非常に風通しの悪い社会となってしまう。縦割り行政とか呼ばれる官庁の硬直的なセクショナリズムなんかがその悪しき代表例だ。

インターネットというインフラの登場

 一方、丸山眞男の頃とは違って、現代という時代は、実はそれら無数の「世間」の間を容易に埋める物理的なインフラを備えている。それはつまりインターネットというやつで、実際、こいつはコミュニケーションの手段としてはかつてないほどに強力だ。何しろ、これまで時間や距離というものが持っていた制約を完全に取り除いたのだから。今や人々は世界のどことでも24時間、365日、好きな時に交流することができる。そして例えばTwitterなんかを使えば、これまでは本やテレビの中でお目にかかれなかったような有名人に直接コンタクトを取ることができるようにもなった(そして本人からレスポンスが返ってくることもある)。これは本当に物凄いことで、少し前だったら考えもできなかったことだ。

 ただし、同時に指摘しておかなければならないのは、それらのテクノロジーは、「世間」内部でのコミュニケーションの回路をますます強化する方向にも機能している、ということだ。例えばTwitterにしろmixiにしろ、外部とつながるよりは、もっぱら「既に仲間である者同士」で単に連絡を取り合うためのツールとして使用されているケースというのが大半なんじゃないだろうか。

 まあ、とにかく細分化した「世間」と「世間」をつなぐ太い回路が誕生した。残された問題は、さてその回路のプロトコルをどうするか、ということだ。

教養は「断絶」を埋めるためのもの

 無論、プロトコルといってもIPだとかHTTPだとかそういう話じゃない。ある「世間」と別の「世間」の間でコミュニケーションをする場合に、何を前提として議論を交わすのか、ということだ。そして僕の考えでは、その時に前提となっているもののことを「教養」と呼ぶのだと思う。

 自分とは別のグループに属する人に、いきなり内輪ネタを話してみても意味が通じない。それは相手が自分と同じ文脈を共有していないからであるが、かといってその人と全く議論ができない、というわけではなない。「世間」というレイヤーの下に位置する、より広範なグループをカバーする文脈、つまり教養を共有していれば、話は通じるのだ。

 自分の立っている場所を背後から規定している知的な何か。それについて敏感であることが社会の断絶を埋める。