実存の問題をシステムや他者が解決することはできない

 たまたま最近読んだ本の『経済成長って何で必要なんだろう』(SYNODOS READINGS)の中で、飯田泰之氏が「貧困は政策によって救える。ただし、個人の実存の問題に対して国家はどうすることもできない」的なことを言っていて、まあ言われてみれば当たり前のことなのだが妙に納得してしまったのでとりあえずそれについて何か書いてみる。

 別に貧困問題に限ったことではないが、ある社会で何かが問題になっている時に、システム側がその問題に対して何らかの対策や制度設計を考え、それがいかに適切で的を得たものであったとしても、必ずしもそれが人々を幸福にするとは限らない。

 いや、だからといって何も対策を打たなくてもいいということじゃない。貧困にあえていでいる人に国が現金を給付すればそりゃ喜ぶだろうし、そのままだったら飢え死にしてしまっていかもしれないような人の命を救うことにもつながる。それはやっぱりいいことだろう。

 でも、飢え死にを免れたからといってその人が全面的に幸福になったともいえない。そりゃそうだろう。その人が抱えている問題が全て金銭に関わるとは限らないのだから(場合によってはそのまま飢え死にしていたほうがその人にとっては幸せだった、なんてことも十分にありえるだろう)。

 もっとわかりやすい例でいえば、たとえば「仕事のやりがい」とかそういう極めて個人の実存に依存するようなことについて、システム側は何もすることができない。それはどうしたってできない。

 もちろん、労働者にプラスになるような政策を打てば、結果として給料が増えたりそういうことはあるかもしれない。でも、だからってその人が仕事にやりがいを感じていなくて不幸せである、という現実をどうこうすることはできない。

 それを解決するためには、例えば別の仕事を探したり、自ら一念発起して上司に企画を提案してみる、みたいな積極的な姿勢が必要なんだろう。言い換えれば、仕事がつまらないのはその人の「自己責任」ってことだ。ああ…それ完全に自分のことだ…。

 とにかく「自己責任」って言葉にはどうしても新自由主義(笑)的なイメージがつきまとって最近はすっかり不人気だし、僕自身もゆるい生き方を志向している人間なのでどうしてもある種の心理的抵抗を感じてしまうのだが、システムがどうすることもできない問題、つまり個人の価値観や実存に関わる問題については、やっぱり自分の責任でどうにかするしかないのだと思う。