「グラン・トリノ」――さようなら、カウボーイたち。そしてアメリカの夜明け

 結局「グラン・トリノ」を3度観た。DVDを2日延滞して600円取られた。でもいいんだそんなことは。本当に感動したから。

 この作品に通低するテーマは「さようなら」だ。
 それはビッグ3に代表される沈み行くアメリカ自動車産業への「さようなら」であり、あるいは伝統的な共同体(但し白人の)に対する「さようなら」でもあるが、そこらへんについては町山智浩なんかが詳しい。


ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記 イーストウッドの『グラン・トリノ』はデトロイトへの挽歌


 もちろん、作品の背景となっているこうした現代アメリカ社会の問題を押さえておくことはこの作品を語るうえでどうしても避けて通れないところではあるし、特にオイルショック以降の日本車の躍進やそれとともに廃れていった白人ブルーカラーたちの社会について、一応、僕たちは知識として知っておくべきだろうと思う。

 でも、イーストウッドがこの映画の中で一番言いたかった「さようなら」、それは「カウボーイ」、あるいは「カウボーイ的なもの」に対するお別れの挨拶だったのじゃないだろうか。

 ラストのシーンで、ウォルトは敵の正面にまっすぐと立ち、冷静に相手の人数を数える。すると野次馬が恐る恐る家々から顔を覗かせる。静寂。そしてタバコをくわえたまま手をジャケットの内側へ忍ばせ、すばやく抜いたその刹那、全てに決着がつく…。

 マカロニ・ウェスタンではお約束のこんな決闘シーン。ただ決定的に異なるのは、あっけなくウォルトが蜂の巣にされてしまうという無残な現実と、単にその「カウボーイ」はよぼよぼに年老いている、ということである。

 そして驚くべきことに彼はなんと丸腰だった。抜いたのは銃ではなくタバコに火を付けるためのジッポ。そう、ウォルトは元・フォードの組み立て工でも、いつも玄関に星条旗を掲げているような典型的な共和党支持者(そしてがちがちのレイシストでもある)でも何でもない。それはあくまで役割であって、彼の本質じゃない。彼は単に「カウボーイ」なのである。粗野で野蛮な、フロンティア精神を体現した存在としての。

 そしてウォルトのその惨めで滑稽な死ととともに、粗野で野蛮な「カウボーイ」はアメリカから姿を消した。彼がその最後の生き残りだったのだ。後に残ったのはタトゥーやピアスしまくりでヒッポ・ホップを爆音で聴いているようなチンピラか、あるいは高度な教育を受けた妙に物分かりのよいリベラルな「カマ野郎」だけ。

 ただし、そういった人々を見つめるイーストウッドの視線は、温かくて肯定的なものだ。彼らのような新しいタイプの連中が21世紀のアメリカを担っていくのだ。二丁拳銃をケータイとパソコンに持ち換えて。あるいは場末の酒場に出向く代わりにFacebookを駆使したりなんかして。