「決断」とは何かを諦めること

 新潮文庫福田恆存「人間・この劇的なるもの」を読んでいたら、こんな文章に目がとまった。

p139
 行動というものは、つねに判断の停止と批判の中絶とによって、はじめて可能になる。私たちはよく「現実を認識しなければならない」とか「現実を凝視せよ」とか、そういうことばを無考えに濫用する。行動は、その「現実の認識」のうえに打ちたてられねばならぬと考え、また、じじつ、自分たちはそうしてきたと思いこんでいる。したがって、その認識が、一つの仮説にすぎぬことを私たちはとかく忘れがちである。仮説が「現実の認識」と同時に、その切り棄てによって成りたつものであることを忘れている。
 劇の主人公は、つねに一貫した行動家であるがゆえに、最初に、あるいは劇の進行過程のどこかで、この判断の停止と批判の中絶とを敢行しなければならない。いいかえれば、かれは不十分な資料を、不十分のままに信頼しなければならないということだ。


というのも、ここで述べられていることが、この前抜書きした丸山眞男の以下のような認識と極めて近いと感じたからだ。

未来社『現代政治の思想と行動』 p450
…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に、多くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。

同 p452
…しかしながら他方決断するということは、この無限の認識過程をある時点において文字通り断ち切ることであります。


 ここで語られていることを僕なりに要約すると「何かを決断し行動するということは、もしもそうしなかった場合に得られたはずの新たな知見や可能性を諦めるということだ」ってな感じになる。

 僕たちは、世界をいかようにでも解釈することができる。だが同時に、僕らは日常の様々な場面で決断をし行動しなければならない。そして、その決断や行動の背後にある僕らの解釈は、常に不完全で頼りない。そこには、もしかしたら将来もっとマシな結論を得ることができるのではないかという疑念が常に存在している。
 
 決断し、行動するということは、そのような疑念を断ち切ることだ。ある種の諦めだとも言える。もっとマシな結論を得ることができる可能性を、ある時点で一度諦めるのである。

 裏返して言えば、決断し、行動できない人というのは、その可能性にずっと執着している人だといえる。「完全に正しい至高の見解」があると信じて、それを得るまでは何もアクションを起こすことができない。そういう人を、世間は意思の弱い人と呼んで馬鹿にする。インテリって呼ばれる人種に行動派が少ないのって完全にこの図式だろう。いろいろなことを知り過ぎているがゆえに、無限の想定をしてしまい、常に自分の考えに確信がもてない。「とりあえず…」っていう発想がなかなかできないんだろうな。チャラい奴が超行動的っていうのもまた然り。あんま何も考えてないがゆえに、見解が狭く、そもそも思いつく選択肢が少ない。だからあまり悩まずにフットワークが軽い。

 で、たった今ふと思いついたのが、宮台真司とかがよく言う「エリート」っていうのは、要はこういったインテリ的な「知りすぎているがゆえの弱さ」とチャラ男的な「知らないがゆえのフットワークの軽さ」を両方兼ね備えた人種のことなんだろうなってこと。まあ普通に考えて、確かに最強という気がする。

 とにかく、戦後日本の保守派と進歩派、それぞれの陣営を代表する二人の知識人が異口同音に「現実は常に不完全にしか把握できない」と書いているのが面白い。

 ちなみに、丸山眞男はこうも書いている。

同 p455
…そういうところから私たちの認識はつねに一定の偏向を伴った認識です。むしろ偏向を通じないでは一切の社会事象を認識できない。ここでも問題は、偏向をもつかもたないかではなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性的にコントロールするかということだけであります。


つまり、自分が「現実を不完全にしか把握できない」ことを自覚しろ、ってこと。