おいしい生活。

 この連休中、僕はずっと実家(東北)に帰省していて、例によってほとんどは家でゴロゴロしていた。食事、風呂、洗濯など、日ごろの雑用を全て母親がこなしてくれるという、ほんの10年前だったら当たり前であった生活。素晴らしかった…。本当はこういう時こそいろいろ手伝ってあげなきゃならなかったんですけどね。すまない、母ちゃん。

 さて、そんな自堕落な生活を送りつつ、ほとんど白痴のように過ごしていた僕ですが、全く外出しなかったというわけじゃない。近くの山の麓にある温泉まで車で行ってみたり、両親が趣味で借りている畑での仕事をちょっとだけ手伝ってみたりと、年寄りくさい、いや、ちょっと格好よく言えば、「ロハス」な時間を過ごしてきた。

 そして今、僕は大都会東京のとあるマクドナルドの2階喫煙席にてこの文章を書きながら、「余裕」ということについて思いを巡らせている。

 なんでそんなことを考えているかといえば、要するに、実家での暮らしには余裕がある、と感じたからだ。そして今、僕は自分の生活に余裕がない、と思っている。もちろん、山積している仕事のこととか、最近会社であった大幅な人事異動(というか体制の変化)にびびっている、などという、そう思うに足る諸々の事情はあるのだが、なんというか、平日のこの時間にマクドナルドでノートパソコンを開いている、というこの現実も含めて、僕の生活には余裕がない。

 別に近くに温泉がない、とか、僕が畑で野菜を作っていない、とかそういうことが問題なわけじゃない。ちょっとうまい表現が見つからないのだけど、「地に足がついた感じ」とでもいうべきものが、故郷の両親にはあって、僕にはない。分をわきまえている、というか。

 自分たちの行動を縛る数多くの制約、それは例えば経済的なものであったり年齢的なものであったりするのだが、そんな理不尽な現実に腹を立てることなく、受け入れる。そしてそこで許された範囲で生活を楽しむ。要するにそれって一言で言っちゃえば「庶民的な慎ましい生活を楽しむ」ってことなんだろうけど、やっぱりそういう生活をしている人からは鷹揚な感じを受ける。余裕を感じる。

 もちろん、こういう庶民的な感覚というのは、往々にして現状肯定・追認ということにつながりやすくて、権力者から政治的に動員され易いっていうのは間違いないんだけど、それでも僕はこういう人たちに惹かれるし、信頼してしてしまう。

 翻って僕、というか多くの都会の若者の生活。
 ベタな物言いではあるが、なんというか現実感覚が欠落したゲームの世界を生きているみたいだ。スキルを身に付けて「レベルアップ」し、自分以外の他人はキャラクターに過ぎず、共感や感情移入がしづらい。仕事中はほとんどパソコン画面とにらめっこ。五感がどんどん損なわれていく気がする。情報は溢れていて、何も知らないのに世の全てを知っているような、既視感にとらわれている。そうして自意識だけが肉体を離れて肥大していく。余裕があるような素振りをしたって、どこかぎこちなくなってしまう。不自然だ。村上春樹チックに言っちゃえば、僕らは「失われて」いる。僕らはまた違う意味で「失われた世代」つまりロスジェネってやつなんだな。

 などと考えてみた9月の夜。早く帰って寝ようっと。