失われた話題 コミュニケーションが難しい理由

 このシルバーウィークとか呼ばれている秋の5連休って、今年から毎年あるものだと勝手に思っていたのですが、決してそういうわけではないのですね。次に5連休になるのは2015年なんだって。ちなみにこれはwikipediaで知った。

 そこでふと思ったのが、この種の情報って、多分テレビとかを普段見ている人たちにとっては、常識というか特に情報のアンテナを張っていなくても、朝のニュース番組とかで普通に耳にしていたことだと思うんですよ(実際にテレビでこういう説明が為されていたかどうかは置いといて)。

 ところが最近は僕も含めて、時事的な情報ソースのほとんどがネット経由という人種が増えてきた。で、そうなると、やっぱりインターネットの本質の一つとして「自己決定性」というか、積極的に自分から情報を求めない限り得られない、ということがあるので、例えばyahooのトップ記事に「シルバーウィークとは…」みたいな見出しがあったとしても、それをクリックして記事を読むか否か、という部分でその情報を得られる人と得られない人、という分かれ方をしてしまう。

 たかがシルバーウィークのことを知っていようがいまいがそんなことはどうでも良い、と言ってしまえばその通りなのだけど、ここで言いたいことは、要するにネット社会においては、少なくと現在のところ情報の取捨選択が個人の主体性に負わされているということだ。極限してしまえば、積極的に自分から何かを知ろうとしない限り何も知ることができないのだ、ということ。

 そしてこれがいわゆるデジタルディバイドとか情報格差って呼ばれるような問題に結合していくのだと思うのだけど、ここではそんな深遠な話ではなくて、もう少し自分の身近なところで生じている現象に絡めて語ってみたい。

 

「話題」が失われた理由

 最近、職場の同僚や周囲の人と会話していてよく思うのが、「なんか共通の話題がないなあ」ということだ。そして別にそれは僕やその人たちが単に無口だから、というわけじゃない。例えば職場の同僚であったら、上司の悪口なんて話題はやっぱり盛り上がるし、話は尽きることがない。
 ただ、もうちょっと社会的な事柄だったり、あるいは音楽や本などの趣味に関わるような話になると、「そうそう!そうなんだよね!」とか、思わず相槌を打つような盛り上げる機会がほとんどなくなってしまったように思う。

「相槌」を打つってことは、要するに多少なりとも自分もその話題についての知識を有している、というのが前提となっている。つまり、相槌をあまり生まないコミュニケーションというのは、みんながみんな、自分しか知らないことを誰かにしゃべっているってことだ。

 そしてこの原因の一つとして、僕は間違いなくテレビなどの、いわゆる「オールドメディア」の衰退、ということがあると思っている。

 とはいえ、僕は決してオールドメディア復権の必要性、などということを謳いたいわけでは全くない。ここ最近の記者クラブ問題なんかには心の底から嫌悪感を持つし、テレビも新聞も最近はめっきり見ないし読まない。

 ただし、テレビが一律にマスな情報を提供することによって、日本の人々の間に存在する様々な「違い」、例えば地域や収入、能力差などを埋めて、人々を「同じ土俵に乗せる」、いわゆる「想像の共同体」を形成する、という役割を果たしてきたのは事実だと思う(もちろん、そういった「違い」を覆い隠すものとして機能してきた、という批判は可能だろう)。

 そして僕が感じたことっていうのは、要するにみんながテレビを見なくなり、新聞を読まなくなった結果、みんな他人とコミュニケーションを取ることが難しく感じるようになったんじゃないかってことだ。

 もっと身も蓋もない言い方をしちゃえば、日本人って今までワイドショーとかお笑い芸人の話ばっかりしてて、そういうのを見なくなった途端、他人と話すことが無くなっちゃったんじゃないかってこと。

 そんなのお前だけじゃんと言われりゃそうなのかもしれないけど、なんか一般的にそういう傾向はあるんじゃないかなという感じはするんですよね。