表現するということ

 前回のエントリで、アウトプットをすることによって知識が初めて血肉化する、だからこのブログを書き始めた、などという趣旨のことを述べた(ような気がする)。
 だが、後から思い直してみて、それが「アウトプット」という行為の本質を、あまりにも矮小化した考えであることに気が付いた。

アウトプット=表現

 何かをアウトプットをするということは、つまり何かを何かの形式によって「表現をする」、ということに他ならない。そして表現者が何かを「表現」する場合、意識的にしろ無意識的にしろ、そこには必ず受け手という第三者の存在があらかじめ想定されている(ちなみに「第三者」が必ず人間であるとは限らない。例えばそれが萌えキャラだったりする場合だってある。あるいは神とか。

 そもそも、単に知識を定着させることが目的であるのならば、ブログなんかじゃなくて、evernoteでも僕が愛用しているモレスキンのノートブックでも、とにかく誰の目にも触れないところで勝手に書いていれば済む話だ。あるいはブログという形式をとるにしても、非公開のプライベートモードに設定をすればよいだけだ。

 でも今回に限っては、僕には初めからそういうクローズドな場所で書こうという選択肢はなかった。もちろんそれなりの推敲や努力はするが、結果的にたとえ恥ずかしい文章で恥ずかしい内容となってしまっても、とにかく一度人目に触れるところで(少なくとも触れる可能性のあるところで)何かを書いてみる。つまり表現をしてみる。
 この習慣を身につけることに比べれば、「知識が血肉化する」なんてことは小さなことだ。もうどうでもいいんだそんなことは。とにかく何かの意見なり言葉を外部に投げかけてみること。その男気だけが今の僕には必要なのだ。

なんなんだこの閉塞感は

 そう、僕は気が付いたら自分の意見を表明することが怖くなってしまっている。仕事でもプライベートでも。昔はそうじゃなかったのにな。なんでなんだろう。第一、怖れるっていったって何を怖れているいるのかも分からない。他人の目?うん、確かに学生の頃とかに比べればそういうのも多少、気になるようになったかもな。
 きっと日常の中の何か非常に具体的で通俗的なネガティブ要素が積み重なっていって、知らず知らずのうちに僕の自負心を蝕んでいったんだろう。誰かと比較してみたり。
 くだらないね。そういうのって本当に。そんなルサンチマンを抱えたやつにはなりたくない。

だから自分の意見を表明するのだ

 で、結局話は戻るのだが、インプットした知識、あるいはそれについて思ったことや感じたこと、それはどんどん発表していくべきなのだ。そういう思いをくすぶったままにしておくといずれ不完全燃焼を起こしてしまうんじゃないかって気がする。内容云々よりも、思うことがあればまずは外に向けて出してみる。そのことによってしか状況は何も変化しないし、そういう発信を続けていれば、結果的に知識だって勝手に血肉化し、実感を伴った自分の言葉として語れるようにもなるだろう。

 ま、結局のところそういう努力を続けていった結果、「何かを語れる人間」になれたとして、そこから何をするか、ってことを一番考えなくちゃならないんだけどね。