「仕事をする」=「サラリーマンになる」という物語

 最近本当に仕事が退屈だ。もちろんその責任の多くは僕自身のふがいなさにある。たとえば何か新規事業の提案を上にあげて、自らその責任者的な立場に就任できたりすれば俄然やる気が出るのだろうが、そんな気力はない。
 甘えといわれようが情けない男だと罵られようが、ぼくはまったり生きたい。だから今の退屈なルーチンワークも甘んじて受け入れている。
 そういえば来週社長との個人面談があったりするのだが、別にたいした貢献を会社にしているなんて思ってないから、給料をあげてくれみたいなことは絶対にいわないつもり。でももし大幅ダウンとかだったら言っちゃうなきっと。最低限の仕事はしているつもりだし。

 大きな括りでいえば、ぼくは一応IT業界の人間だと思う。そしてこれはきっと同じ業界の多くの人が同意してくれると思うのだが、別に毎日会社へ出勤しなくとも、家で同様の仕事をこなすことになんら支障はない。業務的な連絡はメールなりIPメッセンジャーなりで代替できるし(というか現に今、同じフロアで働いていたってそうだし)。

 もちろん、来客があるとかそういう時は出向かなきゃならない。でも営業じゃないから毎日人と会わなきゃならないというわけでもないし、社内の会議であったらスカイプでもなんでもいいけど、今は遠隔でもコミュニケーションを可能とするいろいろなテクノロジーがある。それに、きっとそういうやり方の方が生産性もあがるんじゃないか。

 じゃあなんでそういう働き方を許容している会社が世の中にまだまだ少ないかといえばとても簡単な話で、前のエントリでも書いたことだが、単に人々の想像力が時代に追いついていないだけ。「労働とは会社でするものだ」という物語は今もとても強固に人々の心の中に巣くっている。そしてこういう固定観念の多くは「現実がどうであるか」ということにはあまり影響を受けない。少なくとも短期的には。

 しかし一つの物語が人々に共有されるとき、そこには必ず排除が生まれることとなる。たとえば会社に所属しそこで働くことが常識とされている世界では、会社に属さずフリーランスとして生活している人間はどこか胡散臭い目でみられたりとか。現にそうですよね。フリーの人って家借りたりするの苦労するらしいし。

 でも長いスパンでみれば少しずつそういう会社はふえていくだろう。