マスメディアの崩壊と脱・テンプレ化。そして自由に生きるということ。

 世間にはたくさんの「テンプレ」がある。たとえば挨拶のようなものがその最たる例だろう。

 朝、職場で「おはようございます」といわれれば機械的に「おはようございます」と返す。帰りにタイムカードを打つときにはそれが「お疲れ様です」となる。

 メールの書き出しは常に「いつもお世話になっております」から始まる。そこでは、本当に「いつも」お世話になっているのかどうかなんてのは問われない。それに受け手だって別にそんなことは気にしない。

 こういう挨拶とか礼儀ってものはいわば単なる「お約束」であって、その行為自体には特に何の意味も含まれてはいない。とはいえ、信頼関係を構築したり、物事が潤滑に回るうえではどうしたって必要なものだ。だから今も昔も世界中の家庭や学校や職場や街角で挨拶が交わされ続けている。どんなに定型化し陳腐化してもなくならない。その行為ではなく、そこから生まれるものに何か意味があるからだろう。

 一方、現代は「考え方」とか「生き方」みたいな実存までもがテンプレ化されている。
 たとえば、だいぶなくなってきたとはいえ、「良い大学を出てよい会社に就職する」という人生モデルは今も根強いし、他にも何歳までに結婚するべきとか、果ては童貞は何歳までに捨てるべきとか、とにかくもろもろの雛形が容易されていて、そこから逸脱している人間はちょっと変な奴だと思われる。

 もちろんいつの時代もそういう「かくあるべし」的な規範は存在したし、時代によっては「その規範から外れる」=「切腹」みたいなこともあった。そういう時代と比べれば変な奴あつかいだけで済む今は、良い時代だともいえる。というか良い時代なんだろう。絶対。

 そもそも昔の権力側がある価値観を人々に強制していたのは、ほとんどの場合、自らの権力を正当化するためだ。たとえば武士道なんてのが生まれたのも「お上には逆らわない」ことを遵守させることによって幕藩体制の護持を図る、というのがその第一の目的だったはずだ(たぶん)。

 そしてそのような社会においては、意識的にしろ無意識的にしろ、人々はその価値観のテンプレの裏側に存在する「意図」に気がつくことができる。そして、「なんかよく分からないけどとにかく偉い殿様がこうしろっていってんだからしょうがない」と、たとえ無理やりにでも自分を納得させることができる。

 でも、現代の生き方テンプレを用意しているのは殿様のような絶対的権力ではない。端的にいって、それはマスメディアだ。そこに人々は何の正当性も認めていないにも関わらず、そこで広く流布されているイメージに自らの考え方や生き方を縛られている。それも、物凄く強固な固定観念を。

 そう。はっきりいっちゃえば、他人に迷惑をかけない限り、別に何をしたっていいんだ。どんなふうに生きたって構わない。別に働かなくたって、結婚しなくたって全然大丈夫(もちろんその結果生活が苦しいとか寂しいとかそういうのは全然別の話)。

「こうでなくちゃならない」と世間で言われていることのほとんどに、明確な根拠なんてない。たとえ過去のある時点ではそれなりの根拠があったとしても、今じゃ化石みたいに実質的な価値がないものがほとんだ。多くの場合、人の想像力というのは時代から遅れている。

 今やマスメディアの崩壊は秒読み状態に入った。ブログやTWITTER、あるいはニコニコ動画だとかustreamのような新しいメディアを使えば、個人や小さな会社でも情報を発信し、人々に多様な価値観を提示することができる。つまり、それだけ多様なテンプレが用意されることとなる。選択肢が拡がる。

 別にテンプレ化が悪いわけじゃなく、これまではテンプレの数が少なすぎたんだ。一見自由に生きていけるように思えても、実際にとり得る選択肢は限りなく少なかった。

 これからは万人が賛同し、納得できるような生き方・考え方は減っていく。そしてある意味、それは過酷な時代であるともいえる。だって「こうでなくちゃならない」という固定観念が無くなるということを裏返せば「こうしておけばひとまずは大丈夫」ということが無くなることでもあるから。でもその代わり、「人並みに」という同調圧力からは開放される。

 いってしまえば、それは何でもありのフリーダムな世界だ。世間に縛られず、多様な選択肢から好きな生き方を自由に選ぶことができる。ただし、「自己責任」という言葉の意味がこれまで以上に重みを増すようになるだろう。

 さて、僕はどうしようかな。