【Tips】iBook向けのEPUBでフォント指定を有効にする方法

「META-INF」に

com.apple.ibooks.display-options.xml

というxmlファイルを作成し、以下の内容を記述する。

<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
 <display_options>
  <platform name="*">
   <option name="specified-fonts">true</option>
  </platform> 
</display_options>


これでfont-familyで指定したフォントが反映されます。

ある晴れた日に漱石のお墓に行ってきた


正面から見た漱石のお墓



裏側はこんな感じ


 ちょっと前の日曜日、行き付けの東池袋豊島区立中央図書館に寄ったついでに、ふと雑司ケ谷霊園にある夏目漱石大先生のお墓参りをしてきた。

 その日はとてもいい天気で、まだ五月だというのに歩いていると汗だくになってしまうくらいの陽気だった。でも霊園内は緑が多いためかひんやりとした空気が漂っていて涼しかった。



 面白かったのは、お墓だというのにお墓参りをしている人は少なくて、若いカップルの姿がやたら目についたことだ。でもまあわかる。静かだし、なんというか親密な感じがする空間なのだ。死者の懐の深さってやつか。

 地図を頼りに漱石のお墓を探して、たった一人でその墓前に立った時、脳裏をよぎったのは「三四郎」のこんな一節。かなり長いけど引用。


「夢だよ。夢だからわかるさ。そうして夢だから不思議でいい。ぼくがなんでも大きな森の中を歩いている。あの色のさめた夏の洋服を着てね、あの古い帽子をかぶって。――そうその時はなんでも、むずかしい事を考えていた。すべて宇宙の法則は変らないが、法則に支配されるすべて宇宙のものは必ず変る。するとその法則は、物のほかに存在していなくてはならない。――さめてみるとつまらないが夢の中だからまじめにそんな事を考えて森の下を通って行くと、突然その女に会った。行き会ったのではない。向こうはじっと立っていた。見ると、昔のとおりの顔をしている。昔のとおりの服装をしている。髪も昔の髪である。黒子もむろんあった。つまり二十年まえ見た時と少しも変らない十二、三の女である。ぼくがその女に、あなたは少しも変らないというと、その女はぼくにたいへん年をお取りなすったという。次にぼくが、あなたはどうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、この髪の日がいちばん好きだから、こうしていると言う。それはいつの事かと聞くと、二十年まえ、あなたにお目にかかった時だという。それならぼくはなぜこう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、その時よりも、もっと美しいほうへほうへとお移りなさりたがるからだと教えてくれた。その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うと、女がぼくに、あなたは詩だと言った」


ああ、なんて素敵な文章…。

「仕事をする」=「サラリーマンになる」という物語

 最近本当に仕事が退屈だ。もちろんその責任の多くは僕自身のふがいなさにある。たとえば何か新規事業の提案を上にあげて、自らその責任者的な立場に就任できたりすれば俄然やる気が出るのだろうが、そんな気力はない。
 甘えといわれようが情けない男だと罵られようが、ぼくはまったり生きたい。だから今の退屈なルーチンワークも甘んじて受け入れている。
 そういえば来週社長との個人面談があったりするのだが、別にたいした貢献を会社にしているなんて思ってないから、給料をあげてくれみたいなことは絶対にいわないつもり。でももし大幅ダウンとかだったら言っちゃうなきっと。最低限の仕事はしているつもりだし。

 大きな括りでいえば、ぼくは一応IT業界の人間だと思う。そしてこれはきっと同じ業界の多くの人が同意してくれると思うのだが、別に毎日会社へ出勤しなくとも、家で同様の仕事をこなすことになんら支障はない。業務的な連絡はメールなりIPメッセンジャーなりで代替できるし(というか現に今、同じフロアで働いていたってそうだし)。

 もちろん、来客があるとかそういう時は出向かなきゃならない。でも営業じゃないから毎日人と会わなきゃならないというわけでもないし、社内の会議であったらスカイプでもなんでもいいけど、今は遠隔でもコミュニケーションを可能とするいろいろなテクノロジーがある。それに、きっとそういうやり方の方が生産性もあがるんじゃないか。

 じゃあなんでそういう働き方を許容している会社が世の中にまだまだ少ないかといえばとても簡単な話で、前のエントリでも書いたことだが、単に人々の想像力が時代に追いついていないだけ。「労働とは会社でするものだ」という物語は今もとても強固に人々の心の中に巣くっている。そしてこういう固定観念の多くは「現実がどうであるか」ということにはあまり影響を受けない。少なくとも短期的には。

 しかし一つの物語が人々に共有されるとき、そこには必ず排除が生まれることとなる。たとえば会社に所属しそこで働くことが常識とされている世界では、会社に属さずフリーランスとして生活している人間はどこか胡散臭い目でみられたりとか。現にそうですよね。フリーの人って家借りたりするの苦労するらしいし。

 でも長いスパンでみれば少しずつそういう会社はふえていくだろう。

アクティビストの不在

 いつの時代だって最強の人間っていうのは頭の出来が良い奴でも容姿がいけてるやつでなく、いわゆる楽天家という人種だ。

 こういう人たちというのは、決して自分の不幸やネガティブな要素を自覚していないわけではない。全てを折り込んだうえで、まだ前向きさをキープできるのだ。

孫正義、【志】を語る。「孫正義 LIVE 2011」書き起こし

 ということを、この孫正義さんのスピーチのテキストを読んでおもった。
 (ustreamの動画配信は終了してしまった模様)

 本当は自分がのっぴきならない状況に置かれているのに、それを自覚するだけの知性と敏感さが欠如しているが故に、ただ楽しそうにへらへら笑っているだけの人たちというのはたくさんいる。
 でもそういう人たちが、いざ自分の置かれているのっぴきならない状況に直面せざるをえなくなったときにも、同じようにへらへら笑っていられるかどうかは疑問だ。その多くは問題に直面して初めて慄然とするのだろう(自分含む)。

 一般的に、人間は知識が増えるにしたがって不幸になるんじゃないか、と思う。いや、もうちょっと正確にいえば、少なくとも何も知らなかった頃のように無邪気ではいられなくなる。知識というのは、どうしたって俯瞰的な視点を生んでしまうから。冷静に俯瞰的に眺めれば、この世の中なんて本当につまらない、クソみたいなことで溢れているに決まっている。そんなことは全く自明のことだ。

 孫さんほどの人物になれば、それこそたくさん経験や知識を所有しているはずだと思うのだが、この人の凄いところは、決して斜め上視線で物事を眺めたり、単なる傍観者にならず常にポジティブさを失わないアクティビストでいられることだ。

 今この国には、小利口で他人の欠点ばかりに目がいくような傍観者が溢れている(それが時に洗練された文化を生み出す土壌となることは否定しない)。

 そして、孫さんが帰化日本人であるという事実が、なんだかとっても象徴的な気がする。

マスメディアの崩壊と脱・テンプレ化。そして自由に生きるということ。

 世間にはたくさんの「テンプレ」がある。たとえば挨拶のようなものがその最たる例だろう。

 朝、職場で「おはようございます」といわれれば機械的に「おはようございます」と返す。帰りにタイムカードを打つときにはそれが「お疲れ様です」となる。

 メールの書き出しは常に「いつもお世話になっております」から始まる。そこでは、本当に「いつも」お世話になっているのかどうかなんてのは問われない。それに受け手だって別にそんなことは気にしない。

 こういう挨拶とか礼儀ってものはいわば単なる「お約束」であって、その行為自体には特に何の意味も含まれてはいない。とはいえ、信頼関係を構築したり、物事が潤滑に回るうえではどうしたって必要なものだ。だから今も昔も世界中の家庭や学校や職場や街角で挨拶が交わされ続けている。どんなに定型化し陳腐化してもなくならない。その行為ではなく、そこから生まれるものに何か意味があるからだろう。

 一方、現代は「考え方」とか「生き方」みたいな実存までもがテンプレ化されている。
 たとえば、だいぶなくなってきたとはいえ、「良い大学を出てよい会社に就職する」という人生モデルは今も根強いし、他にも何歳までに結婚するべきとか、果ては童貞は何歳までに捨てるべきとか、とにかくもろもろの雛形が容易されていて、そこから逸脱している人間はちょっと変な奴だと思われる。

 もちろんいつの時代もそういう「かくあるべし」的な規範は存在したし、時代によっては「その規範から外れる」=「切腹」みたいなこともあった。そういう時代と比べれば変な奴あつかいだけで済む今は、良い時代だともいえる。というか良い時代なんだろう。絶対。

 そもそも昔の権力側がある価値観を人々に強制していたのは、ほとんどの場合、自らの権力を正当化するためだ。たとえば武士道なんてのが生まれたのも「お上には逆らわない」ことを遵守させることによって幕藩体制の護持を図る、というのがその第一の目的だったはずだ(たぶん)。

 そしてそのような社会においては、意識的にしろ無意識的にしろ、人々はその価値観のテンプレの裏側に存在する「意図」に気がつくことができる。そして、「なんかよく分からないけどとにかく偉い殿様がこうしろっていってんだからしょうがない」と、たとえ無理やりにでも自分を納得させることができる。

 でも、現代の生き方テンプレを用意しているのは殿様のような絶対的権力ではない。端的にいって、それはマスメディアだ。そこに人々は何の正当性も認めていないにも関わらず、そこで広く流布されているイメージに自らの考え方や生き方を縛られている。それも、物凄く強固な固定観念を。

 そう。はっきりいっちゃえば、他人に迷惑をかけない限り、別に何をしたっていいんだ。どんなふうに生きたって構わない。別に働かなくたって、結婚しなくたって全然大丈夫(もちろんその結果生活が苦しいとか寂しいとかそういうのは全然別の話)。

「こうでなくちゃならない」と世間で言われていることのほとんどに、明確な根拠なんてない。たとえ過去のある時点ではそれなりの根拠があったとしても、今じゃ化石みたいに実質的な価値がないものがほとんだ。多くの場合、人の想像力というのは時代から遅れている。

 今やマスメディアの崩壊は秒読み状態に入った。ブログやTWITTER、あるいはニコニコ動画だとかustreamのような新しいメディアを使えば、個人や小さな会社でも情報を発信し、人々に多様な価値観を提示することができる。つまり、それだけ多様なテンプレが用意されることとなる。選択肢が拡がる。

 別にテンプレ化が悪いわけじゃなく、これまではテンプレの数が少なすぎたんだ。一見自由に生きていけるように思えても、実際にとり得る選択肢は限りなく少なかった。

 これからは万人が賛同し、納得できるような生き方・考え方は減っていく。そしてある意味、それは過酷な時代であるともいえる。だって「こうでなくちゃならない」という固定観念が無くなるということを裏返せば「こうしておけばひとまずは大丈夫」ということが無くなることでもあるから。でもその代わり、「人並みに」という同調圧力からは開放される。

 いってしまえば、それは何でもありのフリーダムな世界だ。世間に縛られず、多様な選択肢から好きな生き方を自由に選ぶことができる。ただし、「自己責任」という言葉の意味がこれまで以上に重みを増すようになるだろう。

 さて、僕はどうしようかな。

21世紀は日本がもっとも苦手とする時代

 どれだけ不況や「失われた時代」が続いても、いまだに日本=裕福というイメージが「かろうじて」流通し、それを多少なりとも誇らしく思えているのは、高度経済成長やバブルを経験した世代の人々がまだギリギリ現役で、彼らの抱く幻想がまだ社会の主流であるからだ。
 
 しかし今後、彼ら彼女らが表舞台から姿を消し、ロスジェネ世代や好景気というものを全く味わったことがないそれ以下の世代だけが残された時、この国の雰囲気は一変するだろう。

 とはいえ、もちろんまだまだ相対的には豊かな国であるのことも事実だ。

 平均寿命は世界第1位で、いくら中国に抜かれたとしてもGDPはまだ第3位。政治はぐだぐだではあるものの、特に内戦とかがあって道端に死体が転がっているわけじゃない。

 しかし一年間の自殺者が12年連続30,000人を超え、国民の幸福度調査では先進国中最低の90位前後。繰り返しになるけど、経済規模では第3位なのに幸福度では90位。これでもし経済がさらにダメになったらどうなってしまうんだろうと心配になる。それこそモヒカンの怖い人たちが「ヒャッハー!」とか叫びながら跋扈するリアル北斗の拳ワールドになってしまうんじゃないか。

 でも残念ながら、いろいろな人たちが言っているように日本経済がますます悪くなっていく可能性は僕は高いと思う。なぜなら21世紀という時代は日本という国がもっとも苦手とする時代だと思うからだ。

 20世紀型の経済というのは基本的には産業革命の延長上にあり、その最終形態のひとつとしてフォーディズム、つまり「大量生産方式」ってやつがあるんだと思うのだけど、とにかくそういう発展のモデルを西洋の先進国が提示してくれる限り、日本は何も考えずその流れにキャッチアップしていくだけでよかった。

 そしてキャッチアップ、つまり追い上げるってことに関して、思うに我々日本人は最強の民族だ。
 ひとつの大きな目標に向かって、集団で一気につっぱしる。明治維新ってものはまさにそういうことだし、高度成長時代というのも同様。

 しかしある時点で、そうやって血反吐を吐きつつ必死に追いかけてふと前を見たら、誰もいなくなっていた。つまりいつの間にか一番先頭にきてしまっていた。それが80年代のこと。

 追いかける対象を失ってしまったとき、日本人は急にどうしていいかわからなくなる。個々の文化とかそういう細かい面ではいろいろと独創的なものを生み出してきた我々も、世界に影響を与えるような自前のイデオロギーやビジネスモデルなど、「大きな物語」を提示することができない。

 そして21世紀というのは、誰も模範を示してくれるわけでもなく、追いかけるべき大きなモデルがあるわけでもなく、その都度その都度で自ら思考し判断し決断しなければならない時代だ。

 どう考えてもこういうの日本苦手だと思うんですがどうでしょうか。

 「子孫ばれ」について

ブッシュ政権の末期にどこかでこんな記事を読んだ気がする。

「もしブッシュが若いときにYouTubeがあったら奴は大統領にはなれなかっただろう」

 これは要するに、「奴はオツムが弱いからきっと自分のとったろくでもない行動なんかをYoutubeにあげてたり、あげられたりしていただろう」という意味。

 実際ろくでもない行動かどうかは別としても、それなりに目立つ存在だっただろうから(なにしろ親父も政治家だし)何かしらの動画がどこかに残っていたとしてもおかしくない。

 特に今なんかはYouTubeに限らずFacebookやらmixiやらTwitterやら、あらゆる場所に自分の発言・行動履歴がデータベース的に残っている。

「なう!」とか「だう!」とかつぶやいているのを500年後とかの子孫にみられるのってなんか嫌ですね。